熊谷さとしのフィールドノート
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ウォレスとダーウィン

「進化論」といえば、内容はわからなくても「ダーウィン」の名前は すぐに浮かぶと思う。
でも彼が著した「種の起源」の柱である「自然淘汰説」「適者生存」 という理論はウォレスが考えたことなのだ。
別にだからといってパクッただの、ダーウィンがずるいだのと言う つもりはない。
 もし「種の起源」に人格があったとするならば、著者にダーウィンを選び、 結果として優先権をダーウィンが手に入れた。ということだと思うからだ。

 どういうことかと言えば、当時は「天地創造説」が一般的であった。
そこに「神をも恐れぬ論文」を発表するには、ウォレスの情熱、真実と 体験による裏付けだけではダメで、リンネ学会をバックにした権威、実績 (人間界の)、名声と言ったものが必用であったと思われる。
 さらにダーウィンはもひとつ自分の進化論に自信が持てないでいたし、 (あいまいだったからこそ、ウォレスに先を越されたのだが)種の起源以前の、 ラマルクが説いた「獲得形質の遺伝」を信用していたためにその考え方から 離れられずにいた。

 従って彼の著した本は、絶対的な言い放ちの論文ではなく、遠慮がちな わかりにくい文章となった。(何しろこの考えの当の本人であるウォレスが、 5回も読んでやっとわかったというくらいだ)

 更に当時の反響は大きく、サルの体にダーウィンの似顔絵のある風刺画が 出回るほど、良くも悪くも社会に与えた影響は大きかった。
こうした状況に耐えるにも学会をバックにした、心臓に毛の生えたダーウィンでよかったのだろうと思う。

 このことはウォレス自身も認めており、彼自身の優先権の名誉や名声よりも、 ダーウィンのおかげで「科学全体の底上げになった」ことを素直に喜ぶ。

 その後二人はミスターを付けずに呼び合うほど仲良しになるのだが、この ウォレスのダーウィンに対する姿勢は生涯変わらなかった。

 しかしダーウィンとすれば、ウォレスの無垢さに触れれば触れるほど、 自分の中のどす黒さに(実際、優先権を得るために、ウォレスからの手紙を 隠す、日記の日付を改竄する、学会の連中と様々な根回しをするなど、陰謀 とも思えることをしていた)いたたまれなかったに違いない。
 ウォレスに書いた手紙にも「なぜあなたは不公平をなじらないのですか? 世の中には嫉妬や羨望で……云々」という文言が出てくる。
このことはとりもなおさずダーウィンはそういう人だった。ということをあらわしているでは ないか。
ウォレスはそういう人ではなかった。

 時代は1850年代、日本でいうとペリーの黒船が浦賀にやって来た頃だ。
 この二人の立場はどうであったかというと、ダーウィンは名家に生まれ 学歴も申し分なく、経済力もあり、各方面の名士とも交流があって、当時の 学会のナンバーワンであった。

 一方ウォレスは、生まれも卑しく、貧乏ゆえに14才から働かなければ ならなかっため学歴もなく、うぶで世間知らず。そして何よりもまだ若い 「虫獲り屋」であった。
 彼はこの「ダーウィニズム(ウォレスが付けたイズムだ)」をどこで気が 付いたかというと、アマゾン流域で4年、マレー諸島で7年のフィールド ワークの結果だ。
 ダーウィンが社交界でグラスを傾けたり、書斎の机で読書をしているとき、 ウォレスは文明社会から隔絶された、首狩り族の小屋でマラリアに悩まされ ながら虫獲りをしていたのだ。

 彼が初めてゴクラクチョウを見たときにあまりの美しさに目を見張り 「生物は人間のためにいるのではない!」と悟る。
 このシンプルさ!考えてみればあたりまえのことなのだが、頭で理解して いるか?本当に心で理解しているか?の違いは大きい。
 その一方、自分が見てしまったために文明社会にゴクラクチョウの存在が 知られてしまったことを悔やむ(実際その後、百万羽のゴクラクチョウが 殺され、社交界の貴婦人の帽子を飾ることになった)。
 ウォレスは現地人を「人々」と呼び、彼らがアリを食べたりイモムシを 食っていても、野蛮で下等なのではなく文化の違いだけだと理解していた。
それは例え首狩り族の干し首を見てもそうだった。全く筋金入りの非差別 主義者だったのだ。

 一方ダーウィンを始めとする文明社会の人間たちは、現地人を「土人」と 呼び、文化の違いを「野蛮で下等」と見ていた。
 従って彼らの進化論は「まずサルがいて、次に土人になり、その上のうんと 高等なものが自分たちだ」と考えていた。
 この偏見をベースに書かれた「種の起源」の「自然淘汰・適者生存」という 考えは、当時のヨーロッパの植民地政策に拍車をかけ、果てはヒトラーにまで 継承されることになる。

繰り返しになるが、もっともそうした頭のダーウィンが著したからこそ 「種の起源」は当時の社会に受け入れられたのだろう。
 ウォレスが情熱に任せて著したら、あまりにも過激(あたりまえのことを 言ってるのに過激と言われるのだ)になり過ぎて、たちまちバッシングを受けた に違いない。
 何しろ彼の頭の中には「空想的社会主義」が構築されつつあった。
 自然の中に頭の先までどっぷりと浸かると「社会主義」になる。これは俺も 経験がある。それこそ年間200日もフィールドに入り、「野生動物に事足りる 山」をめざして「里山回復」をやっていた頃、ふと「これって、動物の社会主義 だよな?」と思った。しかしどうせ誰に言ってもわかってもらえないだろうし、 また説得するだけの言葉を持っていなかったから、頭をぶるっと振って、その 考えを一掃した覚えがある。

その後、ウォレスの発表する論文は、マルクスやエンゲルスにも影響を与えた。 一方ダーウィンは決して政治に首を突っ込まなかったし、(但しアメリカの 南北戦争には関心があった。どちらを応援していたかは押して知るべし) オカルトには絶対に手を出さなかった。
迂闊にオカルトに首を突っ込んだら、本業の科学の信憑性が疑われてしまうことをダーウィンはよく知っていたのだ。

 しかし興味のあることには何でも首を突っ込んでしまうウォレスは、各地の 交霊会に出席したりしている。これはフィールドワーカーならしょうがない。
十数年のジャングル生活の中で「どう考えたって科学では説明できないこと」 に出会っていたのだろう。と思われる。

ダーウィンとウォレスの決定的な違いは自然に対する「謙虚さ」だと思われる が、それは生まれ持った資質だけではなく、環境がそうさせた。と言う気がする。

もっと詳しく知りたい人は、「ダーウィンに消された男」(朝日新聞社刊) 羽田節子・新妻昭夫・訳を読むと良い。

 

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